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シリーズ特集「松尾祭」(1)|松尾祭と松尾大社《後編》

松尾祭特集

2019/2/01

シリーズ特集「松尾祭」 第1回《後編》


松尾大社と氏子地域からみる松尾祭

松尾祭と松尾大社《後編》

千余年にわたり受け継がれる、伝統の京の神輿祭

(取材撮影協力/写真提供:松尾大社、松尾大社六社青年連合会)

 

松尾祭の様子(境内の様子)

古くは松尾の国祭とよばれた松尾祭

歴史と伝統ある松尾大社の年間恒例の祭事は約60種あるといわれています。なかでも松尾祭は、9世紀中頃の平安時代に始まったとされ、千余年以上も受け継がれている祭りであり、古くは松尾の国祭と称せられていました。古くより多くの氏子区域の方々が関わり、続いているのも特徴です。

古来では3月の中の卯日に出御、4月の上の酉の日に祭礼を行ってきましたが、明治以降は4月下の卯の日に神幸(出御)、5月の上の酉の日に還幸(還御)となりました。昭和36年からは、4月20日以降の第一日曜日に神幸(出御)、3週間後の日曜日に還幸(還御)を行う祭となっています。

 

 

松尾祭まつのおまつり神幸祭おいでの流れ)


松尾祭は、神幸祭前日の御船社(月讀神社境内)での船渡御の安全を祈る祭典「渡御安全祈願祭」から始まるとされています。

 

面合わせの儀

神幸祭当日は、吉祥院地区から榊(さかき)に付けられた翁(おきな/男神面)が到着した後、同じく榊に付けられた綿の袋に入った媼(おうな/女神面)との「面合わせの儀」を行います。それぞれの榊は二人の稚児が捧げもち「榊御面(さかきごめん)」として神輿の先導役にもなります。 (写真上) 

松尾大社宮司

(写真上:松尾大社宮司 生嶌經和氏)

 

鳴鐶と分霊

松尾七社のうち四之社、衣手社、三宮社、宗像社、櫟谷社、大宮社の各社は鳴鐶とともに境内に入場(順序不同)します。(写真左上) その後、この六社の神輿と月読社の唐櫃は、月読社、大宮社、四之社、衣手社、三宮社、宗像社、櫟谷社の順に本殿から分霊を受ける御霊遷しを行います。(写真右上)

拝殿廻し

本殿から分霊を神輿に受けた後は、四之社、衣手社、三宮社、宗像社、櫟谷社、大宮社の順で、各氏子によって拝殿を3周する「拝殿廻し」を行い、榊御面を先頭に月読社(唐櫃)から本社を出発。各社とも桂の里を通り、桂離宮東北の桂右岸へと目指します。

船渡御

桂川に到着後、各社の神輿と唐櫃は、桂川を桂大橋で渡らず、古来より続いている船で渡る「船渡御」にて、対岸へと渡ります。

河原斎場祭

船渡御ののち、堤防下の河原斎場に到着します。ここでは、古例による地元からの団子神饌が献上され、祭典が行われます。 (写真上)

西七条御旅所の様子

祭典が終わると、各社は順に出発し七条通りを東に進み、それぞれの氏子地域を廻りながら、衣手社の神輿は「郡衣手神社」に、三宮社の神輿は「川勝寺三宮神社」に、月読社の唐櫃と四之社、宗像社、櫟谷社、大宮社の東四社の神輿は「西七条御旅所」に到着。それぞれの神輿から本殿に遷霊される「著御祭(ちゃくぎょさい)」が行われ、神輿はその地に3週間とどまることになります。
(写真左は西七条御旅所での様子)

 

松尾祭まつのおまつり還幸祭おかえりの流れ)


還幸祭(おかえり)は、各御旅所(郡衣手神社・川勝寺三宮神社・西七条御旅所)にとどまっていた神輿が松尾大社に戻っていくお祭となっています。

旭日の杜での催事

旭日の杜での祭典

還幸祭当日は、それぞれの御旅所から神輿と唐櫃が「旭日の杜(西寺跡・唐橋西寺公園)」に集合します。ここでは古例により、唐橋地区からの「赤飯座(あかいざ)」と西ノ庄地区からの特殊神饌のお供えをして祭典を行います。
なお、還幸祭では、松尾大社の本殿、楼門、各御旅所の本殿をはじめ、神輿や神職の冠・烏帽子にいたるまで「葵」と「桂」で飾り付けするので、古くから「松尾の葵祭」とよばれています。

朱雀御旅所での様子

朱雀御旅所での祭典

旭日の杜(西寺跡・唐橋西寺公園)での祭典を終えると、月読社、四之社、衣手社、三宮社、宗像社、櫟谷社、大宮社の順に神輿と唐櫃が出発し、朱雀御旅所(朱雀松尾總神社)に立ち寄り、ここでも祭典を行います。
なお巡幸では、下津林地区から選ばれた稚児が「おうま」と呼ばれる「松尾使」として巡検司をつとめ奉仕します。
(写真は朱雀御旅所での様子)

西京極駅付近での様子

その後、七条通りを西に進み、川勝寺、西京極、郡、梅津の旧街道を経て、松尾橋を渡り、松尾大社へと戻ります。
(写真左は西京極駅付近での様子)

拝殿廻し

月読社、四之社、衣手社、三宮社、宗像社、櫟谷社、大宮社の順に松尾大社に到着する神輿は、拝殿廻しの後、遷霊、「著御祭(ちゃくぎょさい)」が行われて、還幸祭は終了し、3週間に及ぶ松尾祭りはその幕を閉じます。

 

氏子が受け継いできた松尾祭まつのおまつり


松尾大社の氏子区域は、京都市内でもきわめて広範囲にわたっているのが特徴で、現在の氏子戸数は約10万戸にものぼっています。このことからも、古くは秦氏の影響力があったことや、いまなお息づく氏子区域の力強さも垣間みることができます。また、その広い氏子区域のなかで、現在の神輿を担ぐ轅下(ながえした)、いわゆる「松尾六社」の各社は、四之社、衣手社、三宮社、宗像社、櫟谷社、大宮社となっています。現在の松尾大社の氏子区域、六社の氏子区域は下記のマップのように分布となっています。 

松尾大社の氏子区域

(※轅下(ながえした)とは氏子地域、神輿を担ぐ氏子の方をいいます)

・北 区:等持院

・右京区:清滝・嵯峨・嵯峨野・梅津・郡・川勝寺・西京極

・西京区:嵐山・松尾・桂・川島・大枝中山

・下京区:西七条・朱雀・梅小路・塩小路・御所ノ内

・南 区:唐橋・吉祥院西ノ庄

 

松尾大社 竹内禰宜に訊く松尾祭まつのおまつり


竹内禰宜と六青会長

(写真左:松尾大社 禰宜 竹内直道 氏)
(写真右:松尾大社六社青年連合会会長 渡邉祐一 氏)

 

ご創建にも関わった秦氏の功績や影響力とは
秦氏の大きな功績は大井の堰を代表とする治水事業が挙げられますが、都づくりにも大きな貢献をしています。
例えば聖徳太子の側近とされている秦河勝(はたのかわかつ)は、皇室との強い繋がりがあったようです。平城京から長岡京、平安京へと遷都を誘引したのも秦氏の持つ大きな富と力によるものだとされています。それ以外でも、秦氏は有名な社寺の創建にも関わっていますね。秦河勝は広隆寺を建て、秦伊侶具(はたのいろぐ)は伏見稲荷大社を創建しました。秦氏はほかにも数多くの全国の社寺の創建にも関わったされています。
諸説はありますが、「太秦」の地名の由来は秦氏(秦酒公)が、絹を「うず高く積んだ」という話は有名ですね。地名になるほど秦氏の影響力が大きかったこともうかがえます。

 

松尾大社の双葉葵

松尾大社と賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)との関係について
同じ葵を使っていることでも知られる松尾大社と賀茂神社ですが、秦氏と賀茂氏にはある種の協力的な深い関係性があったと思われます。実際に婚姻関係もあったことも記録には残っていますし、西と東の種族間で融合するようなところもあったのではないでしょうか。
一説には、葵祭はもともと松尾の秦氏が行っていたお祭りで、それを賀茂氏に譲ったという言い伝えもあるほどです。ほかにも桂川と鴨川に置き換えると、ほぼ両氏族には同じような伝説があることなど共通点も存在していますね。

平安京での神社や御旅所のはじまり
風水も取り入れて創られた平安京ですが、当初は碁盤の目の中に社寺仏閣はなかったんですよ。むしろ排除されていたぐらいで、唯一あったのは東寺と西寺ぐらいです。やがて時代が進むにつれ、天変地異による災害や疫病などが起こってくると、人々は神や仏にすがりたくなったり、または拠り所が欲しくなったりするものです。そういった時代背景の中で、都の外から神様を持ってきて、お社を建てたことが始まりだと思います。
ちなみに風水に基づいている平安京なので、北陸街道が賀茂神社、東海道に抜けるところは日吉神社、西国街道では伏見稲荷大社や石清水八幡宮、山陰街道には松尾大社のように、大きなお社を置くことによって外からの邪気を防いだともいわれています。

松尾祭のはじまり
先で述べた神社や御旅所の始まりがそうであったように、最初に災害や疫病に対する祈りが最初で、次に五穀豊穣を祈るために生まれてきたとされています。

現在と違うところは、いまのように神社や氏子が主体なのではなく、「松尾の国祭」といわれていたこともあるように、最初はおそらく国家行事で朝廷が指導していたと思われます。

よく聞かれる質問で、「他の御旅所では神社の方向を向いて行うのに、なぜ朱雀御旅所での祭典は御所を向いて行うのか」。古くは国家行事だったが故に、御所を向いている名残りが現在にも伝わっているという可能性も否定できませんね。

 

竹内禰宜と六青会長

神輿の移り変わり
現在のように神輿が豪華絢爛になったのは江戸時代からです。もともとは貴族が乗る輿が原型。それから神様が乗られるということで、時代とともに派手やかさが含まれていったというのが、神輿の成り立ちだと思います。平安時代や鎌倉時代では、穢れがあった神輿は簡単に作り直しができるような神輿であった時代もあったようです。正確な記録は残っていませんが、いまの神輿よりもシンプルで、手の込んだものではなかったのではないでしょうか。
神輿に関連することですが、「神輿の重さはどれくらいあるのか」という質問が各社でも多いかと思います。各社によってもちろん重さは異なっているのですが、神様がお乗りになると皆さん一様に重くなるとおっしゃるのは、不思議な話ですよね。

氏子祭としての松尾祭
昔は国家行事だった松尾祭ですが、「氏子祭」や「氏神祭」と定義されるようになったのは明治時代に入ってからです。明治が転換と思われていますが、江戸時代中期では各轅下が自分たちの意思で、神輿の資金を作ったり、神輿を作り変えたりもしていました。このことからも一概に明治からとは言えず、それ以前から氏子の方々にとって、自分たちの祭としての高い意識持たれていたように思います。

 

松尾祭が受け継がれてきた理由・変遷について
松尾祭が長く続いてきた大きな理由は、氏子が祭りとともに生きてきたからだと思います。氏子のものだからこそ、各社お互いに華やかに競い合ったりもしながら現在の姿へと確立したのでしょう。過去には、神幸祭と還幸祭との3週間の間に、いろいろな催しもあったそうですよ。例えば西七条御旅所には能舞台もあったので、旅中に能が開催されていたこともあったようです。昔の人々にとって、お祭りや神輿が村の楽しみであり、誇りであり、それをいかに残し続けていくか、村の人にとっての役割であったと考えています。
現代に入り、担ぎ手が少なったせいで神輿巡行が下降気味になってしまうといった不遇のときもありましたが、これに対し六社は集まり、力が必要とする場面では順番に助け合い盛り上げていこうとしました。それが松尾大社六社青年連合会のはじまりであり、いまも氏子が中心となって松尾祭を大切に守り続けていることが分かります。

 

「ほいっと」について

神輿の掛け声「ほいっと」とは
京都での神輿を担ぐ際の掛け声は「ほいっと!ほいっと!」。他府県ではあまり聞かれない独特な掛け声なので、その意味や語源など質問されることも多いですね。
もともと神輿の担ぎ手は農業や林業の方が多かったため、そのことを考えると担ぐ際のバランス取り、掛け声から派生したと思いますよ。ちなみに松尾祭では昭和になってから「ほいっと!ほいっと!」と使われるようになりました。

竹内禰宜

松尾大社六社青年連合会へのメッセージを
千余年以上も松尾祭が続いているのは氏子の力であって、守り続けてきたのは先祖代々の氏子です。この歴史と伝統あるお祭りを後世に伝えていくのは神社の力ではなく、氏子の力がないと成り立たないものと考えています。
過去から現在にかけて、さまざまな盛衰がありましたが、平穏無事で終えることが何よりも大切なことだと思います。事故や汚点は歴史に残りやすく、無事に終える年は歴史として刻まれにくいかもしれません。しかし、「今年も無事で終えることができました」ということが一番大事なことであり、その連続が松尾祭が続いていく、ということに繋がっていくのだと思います。
松尾祭を担う氏子の方々、関係者の方々をはじめ、松尾大社六社青年連合会の方々に、今後も平穏無事で行っていただけることを期待しています。



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